要識迎随、須明逆順。
迎随を知る事を求めれば、須く逆順を明らかにする事
迎隨者,要知榮衛之流注,經脈之往來也。 明其陰陽之經,逆順而取之,迎者,以針頭朝其源而逆之,隨者,以針頭從其流而順之,是故逆之者,為瀉為迎,順之者,為補為隨,若能知迎知隨,令氣必和,和氣之方。 必在陰陽升降上下,源流往來,順逆之道明矣。
ここまでの時点で大成の編者の楊継州は読者が黄帝内経を知っている事を前提として、これらの内容を解説していることに気がつかれると思う。黄帝内経による人体生理を土台とした人間観を治療として消化させるために様々な解釈やアプローチがなされるのが東洋医学の一つの形態なのだから、その前提は当然では有るだろう。竇漢卿もまた、その前提をもって標幽賦を書いている。ここでの迎随は黄帝内経によって言及された迎随以外の意味を持たせるのは無茶だ。だから、この迎随は経絡の走行であり、その経絡の走行を知る事が榮気、衛気の流注を知る事であると解説が続く。これは前節の経絡経穴を利用した治療根拠の部分の発展と見る事が出来るだろう。更に解説では迎随の補瀉の技法に触れている。これは現代でも使われる迎随の補瀉と同じで、経絡の流れに対しての針の向きによる補瀉で、その詳細は教科書でも参照していただきたい。面白いのは、気を和ませるという表現で、現代の気を補う、瀉すといった気の量を主観とした表現ではなく和ませると言うバランスを主観とした表現になっている事だ。つまり、楊継州は標幽賦の治療観念の最初に「気を和ます」というバランスを重視した治療観念を見いだしているようだ。これは実際の臨床に置いても非常に参考になる観念だと個人的には思っている。
 
 
況夫(聚英だと乎)陰陽、気血多少為最、厥陰太陽、少気多血、
太陰少陰、少血多気;而又気多血少者、少陽之分;気盛血多者、陽明之位。
陰陽は重要だが、況や気血の多少をや。厥陰太陽は小気多血で、
太陰少陰は、少血多気である。しかして気が多く血の少ないのは少陽の分で気が盛んで血も多いのは陽明の位。
此言三陰三陽。 氣血多少之不同,取之必記為最要也
前説までで気血と経絡の重要性を書いている訳で、その集大成部分として経絡と気血の関係が書かれている一文となっている。楊継州も最重要としているように、この観念は今でも臨床で多用されるのは周知だ。例を挙げるまでもなく、気虚の治療に足三里や合谷が使われるのは陽明が多気多血の経であるからだし、それ故に実証の症状が出やすく実則陽明などという言葉も有る訳だ。この部分はもはや臨床では常識となっているのではないだろうか?
 
 
先祥多少之宜、次察応至之気。
先に多少の宣を明らかにし、次に気の至るのを察する。
凡用針者,先明上文氣血之多少,次觀針氣之來應
読み下し部分がグダグダになっているが、要するに前説よりの流れのままで、先に気血の多少を判断したら次に気が至るのを察しなさいという事だろう。大成の解説でも、およそ針を用いるものは先に上文の気血の多少を明らかにして、次に針に気が至るのを観察しろと書いてあるわけで、この辺は察してもらえると助かる。もっとこういうのが得意な人がいらっしゃいましたら是非、訂正を入れて欲しい。内容的には針の治療部分に踏み込んでいるので、前説よりも更に臨床的な事が書かれている。これからどんどん臨床的な内容に踏み込んで行くのだが、それもまた標幽賦の特徴であり、標幽賦が鍼灸治療に置いて一つの指標足りうる根拠でもあろうと自分は考えている。