kyougetu2008-12-14

 マクロに見て行くと書いておきながら想像以上にミクロな部分に突入してしまった前回だが、細かい部分に気になる場所が有ると調べて行かないと気が済まない性格なので大目に見ていただきたい。あと、手元に丁度辞書が有って、前々から気になっていた事を調べたりしてた流れのままに書いてしまったという一連も有った。
 前回から日も開いた事も有るので、今回は少し大まかな、本当の意味でのマクロな部分で大成を見てみたい。
 これでも聞きながらザックリ見てもらえると良いかもしれない。
 http://www.algerie.fm/

 アルジェリアのFMラジオ放送に関する話はさておき。
 黄帝内経を根幹とした東洋医学の一つの大きな潮流としての鍼灸だが、その年代を下るに従って大きく変化して行くもの、全く変化しないものが有り興味深い。とくに補瀉の手法が大きく変化して行くのは古典を眺める(あくまで「眺める」であって「研究」も「読み込み」もしていないという部分に留意してもらいたい)者としては、それを追いかけるだけでも楽しい。
 素問の頃の補瀉は至ってシンプルで、正直言って鍼灸学校で教わるものよりも単純な部分が有る。鍼灸学校での補瀉の多くの部分が、後の難経をベースにしているから当然と言えば当然だろうが。上げてみると、まず呼吸の補瀉、次に迎随の補瀉、提按開闔の補瀉、弾爪の補瀉、出内の補瀉という、まあ5つに集約する。この補瀉の手技に後世提挿(揚挿とはちょっと違うので注意)捻転の補瀉が加わり、むしろそちらの方が主体となって行くという流れが有る。究極的な補瀉の手法として焼山火と透天涼がある訳だが、実際問題として焼山火と透天涼を臨床で使いこなすのは困難極まるものがある。
 話を戻すと、素問の頃の補瀉と、提挿捻転主体の補瀉では技術の巧拙というよりも使っていた針の種類が異なるという部分が大きいと自分は思っている。つまり、豪針が針の中心として使われている近現代の鍼灸と、古代九針が中心の古代の鍼灸で補瀉の手法が異なるのは当然だろうと自分は考える訳だが、あまり共感は得られてない。
 素問の治療法の部分を見て行くと、その多くが実は刺絡に依存している事に気がつく。これは当時の三稜針が特別すぐれていたという訳では有るまい。要するに、当時の針が太く、今の豪針のように深くさす事が困難で、深くさすと逆に病状を悪化させる要因になりかねないという背景が有ったと想像する方が自然ではないか?と思うのだ。そうなると、補う部分を飲み薬でフォローしていけば、鍼灸の出番は主に瀉法となり、その最たるものとして刺絡が使われていたのではないか?と自分は感じている。
 1968 年に河北省満城の劉勝墓から出土した西漢の金鍼の画像が手元に有るので掲載しておく。
 この太さの針で補法を行うことの困難さを想像してもらいたい。
 また、この太さの針を打ち込む手技を想定すると、開闔補瀉の有効性は大きかったで有ろうと思う。同時に、この太さの針だからこそ、針を暖めた時の効果も大きかったのではないかと思う。また、この太さの針を打ち込んだ後に、それを提挿したり捻転したりした場合の打たれた方の体の負担を考えると、揚挿捻転の手技が後世に発展した理由となりうると自分は考える。
 大成では既に提挿捻転補瀉が扱われている。この時代になると揚挿捻転が必要とされる状況、つまり針を作る技術の向上による豪針の細さ、鋭さが現代のそれに近いもので有ったのでは?と推測することは、そうそう外れた事では有るまい。
 次は大成での補瀉をすこし突っ込んでみてみたい。